灯 1.17
昨年、
阪神大震災の体験談を日記に記しました。
http://ryokon.ti-da.net/e1929541.html
TADARINのおかげで、
たくさんの方々に、
私の体験したことを知ってもらえて、
共感してもらえて、
ほんとに嬉しくてたまらなかったんです。
だから、
また今年も、
下手な文章ではありますが、
何かを感じ取って頂けたら幸いです。
1995年、1月17日
当時私は小学校3年生でした。
私の通っていた小学校では
ターを含め、3人の生徒、1人の先生が地震で亡くなりました。
あの日、
地震の起こった当日は、
本当に長い長い一日だったのを、
今でも鮮明に覚えています。
朝方にターが死んで、
悲しみに暮れる暇もなく、
子供たちは、
小学校の体育館に避難するようにと。
仲の良かった友達と体育館で会ったとき、
『生きてる』
ということがこんなにも嬉しいことなんだと、
泪を流して抱き合いました。
でも、
生きている私たちのところへは、
驚くほどたくさんのご遺体が運ばれてくるんです。
体育館のステージが、
一時的な遺体安置所になっていたのです。
あのステージの上で歌ったり、
踊ったりしていたのに・・・
ものすごくショックでした。
遺体に目を向ける度に、
もしかしたらまだ生きてるんじゃない?
とか
急に動きだしたらどうしょう・・・
とか
そんなことを考えていたら、
怖くて怖くて、
遺体をなかなか見れませんでした。
そんな中、
知っている人がいないか確認してくださいと自衛隊の人に頼まれて、
恐る恐る一人ひとりを確認していきます。
何人目かで、ターをみつけました。
ターは、見知らぬおばぁちゃんの横で眠っていました。
運びだされたときよりも、
青白く、しんどそうな顔をしていました。
ターの隣の隣くらいに、
見覚えのある人をみつけました。
私の家の向いの一軒家に住んでた、おばちゃんでした。
よく、そのおばちゃんの家の壁にボールを当てて遊んでは
怒られていたので、
私たちはそのおばちゃんのことを
『くそばばぁ』
と呼んでいました。
あんなにも毎日怒鳴ってたおばちゃんが、
死んでいました。
いつになく穏やかな顔だったので、
見た瞬間はわかりませんでした。
でも、
いつもの紫の派手な服を着ていて、
やっぱりあの口うるさいおばちゃんだとわかりました。
あんなに怖いおばちゃんが、
こんな地震なんかで死ぬわけがない。
負けるはずがない。
そう思わずにはいられませんでした。
当時は、
いつも怒ってくるおばちゃんのことが大嫌いでした。
『くそばばぁ』と呼ぶくらいですから。
でも、
悪いことを悪いと怒ることができるおばちゃんの行動は、
ほんとに勇気がいることなんだと、
あとになって、
おばちゃんの偉大さ、優しさを知ることになりました。
身近な人が、
一瞬にして、
一日にして、
次々に死んでいく様を目の当たりにして、
生きてることの方が不思議に思えるような感覚に陥りました。
夜になって、
体育館に迎えにきてくれた父は、
凄く疲れた顔をしていました。
帰り道、
父は私の手をギュッと握り締めて、
外灯もつかない寒い夜の道を一緒に歩きました。
途中、
全壊したターの家の前で手を合わせて、
大泣きしながら二人で帰りました。
あの地震が
もし通勤時間に起こっていたら
被害はさらに甚大になっていたと言われています。
あの計り知れない大きな揺れでは
とっさに逃げることなんて絶対にできなかったんです。
だって、
あの強くて優しい勇敢なおばちゃんが死んだくらいですから。
凄く優しくて、背が高くて、格好良かったターが、
たかがテレビが頭に落ちてきただけで死んでしまったわけですから。
人間の無力さを思い知らされた自然の猛威でした。
皆さんは家具を固定されていますか?
万一の時にはどうするか家族と話していますか?
時間というものは
とても恐ろしいものです。
人の気持ちを、
簡単に風化させていってしまいます。
そして、
人間が、
恐ろしい自然の猛威を忘れかけたその頃、
自然は再び、
私たちに教えてくれるんだと思います。
絶対に忘れてはいいけないことを、
地震からたくさん学びました。
息をしている今、この瞬間に、
皆さんが伝えれらること、
伝えるべき人に伝えるべきこと、
絶対にあると思います。
『ありがとう』というシンプルな言葉を、
心の中で想うだけじゃなく、
声にして、
伝わるべき人の心に届けていけたらと・・・
震災から14年経った今、
私はそんな気持ちで2009年を生きています。
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