生きる

りょーこ

2008年01月17日 00:02

あれから13年という月日が流れました。

13年前の1月17日、朝5時46分。

私は、それまで経験したこともない大きな揺れと、

母親の叫び声で目を覚ましました。

気づいたときには、父親が私の身体の上に覆いかぶさっていました。

それからの記憶は、断片的にしかありません。

家じゅうの家具が倒れ、足の踏み場がないほど割れたガラスの破片が床にとびちり、

トイレにいっても水は流れず、蛇口をひねっても何もでてこなかった衝撃だけは今でも鮮明に覚えています。

当時私たち家族が住んでいたマンションは、

建物の構造上、地震に強くつくられていたのか、

ただ大きかったからなのかはわかりませんが、

その地域では珍しく、大きなケガ人は一人もでず、

建物自体もほとんど被害を受けることはありませんでした。

しかし、そのマンションの周辺は、

屋根瓦の昔からの木造住宅、一戸建ての家ばかりでした。

マンションからでた私たちは、その風景に驚きました。

戦争がおこったのかと思いました。

二階建ての家はぺちゃんこにつぶれ、

よく通った近くの電気屋さん家は、屋根しかないんです。

いつもは見上げているはずの屋根が、地面にあるんです。

家自体は壊れていなくても、二階の窓からは火がでていたりで、

焦げ臭い匂いが凄くて、

おっちゃんおばちゃんが、『助けて!!』って・・・


いつもの道なのに、いつもと違う景色。

私はわけもわからず、家の近所をただただ歩いていました。

気づいたときには、一緒に家をでたはずの父、母、兄と知らない間にはぐれてしまっていました。


そこからの記憶は、衝撃的すぎて、私の脳の中ではあまりにも鮮明です。


家族とはぐれた私は、

『子供たちは学校に向かいなさい!』

とそこらじゅうの大人が叫んでいるのを聞いて、

とりあえず小学校なら安全と思い、家から5分の学校へ向かって歩いていました。

いつもの学校への道の途中、

あれ?私のお父さんがなぜか屋根の上にいる!と思った瞬間、

『りょーこ!家もどって、毛布と軍手取ってきてくれ!デーとターがこの中におんねん!』

ぺしゃんこにつぶれたある家の屋根の上にいる父親にそう叫ばれ、私は一人で急いで家に戻りました。

家に着き、部屋の中に入った瞬間、余震がきました。

震度でいうと、3くらいのもんです。

でも、その小さな揺れは、9歳の私にはあまりにも恐ろしいものでした。

はやくお父さんのところに戻りたい。

焦って、泣きながら、倒れたタンスをみつけ、

その中から軍手をとりだし、さっきまでかぶっていた毛布をもって、

父親のところへ戻りました。

父親は、屋根の瓦を一枚一枚取り除きながら、

『デー! ター!大丈夫か??』と叫んでいます。

デー?ター?

え?ここデーとターの家?

でもデーとターの家は二階建て・・・やったよな・・・

あまりにも景色が違いすぎて、そのときはわからなかったけれど、

そのぺしゃんこの家は、地震が起こる日の前の晩、私たち兄弟が遊びにきた、

ターとデー、敬之と英之という双子の兄弟の家だったのです。

ターとデーは私の兄と同じ年(12歳)で、兄とともに、少年野球チームに所属していました。

私の父はその野球チームの助監督をしていました。

双子の兄のターは、私の初恋の人でした。

ターと一緒に遊びたくて、構ってほしくて、私はわざわざ兄の野球の練習についていったり、

呼ばれてもいないのに、双子の家によく遊びにいっていたのです。



走ってターとデーの家の近くに戻ったとき、ふと気がつきました。

あれ?昨日一緒にソーダアイスを食べた二階部分がない・・・二階の部屋がない!

と不思議な感覚に陥っていると、

私をみつけた父親が、

『りょーこ!毛布ここまでもってきて!』

と大きな声で叫びました。

がれきを踏みながらそばまで近寄ると、デーの低い声が聞こえました。

『ターがテレビの下敷きになってるねん』と、デーは悲しそうな眼で言ってました。

父親は、すぐにデーをがれきの中から引きずり出しました。

デーの頭からは血がいっぱい流れていましたが、眼はパッチリ開いていていました。

救急車なんてもちろん来るわけがありません。

誰だか知らない近所のおばさんが私と一緒にデーの応急処置にあたってくれました。

デーの血を拭いている最中も、

父親はがれきにむかって『ター!どこや?』

と叫んでいます。

何分経ったかわかりません。

もしかしたら1時間以上経っていたかもしれません。

ハッと父親の叫び声が聞こえました。

知らないオジサンと父親が、ターをがれきの中からひきずりだしていました。

父親は寝巻き姿の血だらけのターを抱きかかえて、毛布にくるんであげました。

私は、生まれて初めて、遺体を触りました。

ターの身体はもう冷たくて、手足は打ち身のように青くなっていました。

父親は、『りょーこ。ターと握手しとき。しっかりみとき。』

と言って、私の手をとってターの身体に触れさせました。

怖くてたまりませんでした。

でも、ターの顔はいつものように優しくて、穏やかで、私の大好きなターの顔でした。

父親が泣いているのをみたのも、そのときが初めてでした。

涙を流す父親をみて、私は感じたことのない悲しみを感じました。

訳がわからなくなりました。

それからのことはあまりよく覚えていません。



阪神大震災は、私の大好きなターや、そのターのおばあちゃん、

そして、6千人以上ものを命を奪いました。

もし、震災が起こらなかったら、ターは今25歳を迎えています。

亡くなった6千人以上もの人は、13年後の今日を笑顔で元気に生きているはずです。




私たちは、自然界に生かされていて、

その上ではじめて、笑ったり、起こったり、泣いたりできるんだと、改めて思います。

よく、心の中では生きている。と言いますが、

私にとってターは、まさにそんな存在です。

たった12年の命だったけれど、あの日みんなで誓いました。

ターの死を絶対無駄にしない。と・・・





そして2008年。

双子の弟、デーは今、自衛隊に所属しています。

デーが助け出されたとき、その後の処置や面倒を一切みてくれたのは自衛隊の男の人でした。

そしてターを遺体安置所に運んでくれたのも自衛隊の人でした。

デーが高校を出て自衛隊に行く!といったときの眼は、

ターにも勝る優しさと強さがありました。



私の兄。

大切な友達を亡くした口数の少ない兄は、

地震なんかじゃ崩れない建物をつくる!と言ってか言わずか、

大学で土木工学を勉強し、今年、晴れて、建設会社に就職するそうです。


時間の経過に伴って、段々と風化されていってしまうのが現実だけれど、

私は、ターに恥じない人生を、一日一日、穏やかに、しっかりと生きていきたいと思います。




















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